ビジョンについて

今人生の岐路に立たされている。

一言でいえば10年間働いた仕事を辞める。そのあとは決まっていない。

これからどこに向かうのかという段階である。

そういった局面で後悔をしない生き方を選ぶという話題がよく出る。

今日はそのなかでも自分のビジョンを持つということについて少し考えたい。

人生のうちで最初にビジョンをもつのはちょうど小学校の卒業文集に将来何になりたいかというのを書くときだと思う。みなさんは何を書いただろうか。

私はピアニストと書いたが、実現しなかった。実際のところ今はピアノにほとんど触れてすらいない。

大半の人はこの卒業文集に書いたビジョンには到達できないだろう。サッカー選手や女優やピアニストなどといったものに到達できるのは実際のところごく少数の人だろう。

そして次に受験などを通して世間が良いと思うものとビジョンがすり替えられる。ここでは名門大学に合格することを目的とした受験戦争や大企業などに就職するといった就活などによってビジョン実現ということになる。実際のところ第一段階よりは少し多い人が到達できるものだと思う。

そしてここからが最終段階のビジョンとなる。その後の人生の岐路である。

私が今まさにそうなのだが、それは仕事で挫折し、転職するなどといったときに発生する。本当の幸せとは何なのか。それに即したビジョンということである。多くの人が生きていく中で人生を軌道修正し、現実的な落としどころを求める。

さいころは限られたものしか見えていなかったがこのころになると自分にできることがある程度わかってくるのでその先の計画も立てやすい。

 

なにかまとまりに欠けてしまったが、だんだんと自分の人生にピントが合ってくる。

私のなかではそういう感覚である。

 

 

堀江貴文的ノイズに関して

最近、たまたまYouTubeのランダムに出てきたホリエモンチャンネルをみて激ハマりしてしまった。「非常識に生きる」という本を買って読んでいるが、そのなかの「ノイズ」という言葉に震えた。私は会社では女性の部下を教育する立場にある。私は雑談というのが苦手だが、もう一人の2年目の社員の男子のおかげでかろうじて雑談できるようになった。そのなかで私はキングヌーの白日という歌を人から聞いて歌う練習していた話をしたら彼女がキングヌーはイマイチそれだったらミレニアムパレードのほうがいいといったのでYouTubeでみてカルチャーショックを受けた。一言でいうとそれは「ノイズ」でしかなかった。きっとアーティストはキングヌーを商業的な成功のため、そしてミレニアムパレードを自分のやりたいことのために使い分けているのだろう。まるで宇宙人にでも出くわすようなその異質で色々なものがギラギラしたカオスのようにごちゃまぜになったその音楽は和とも洋とも言えない。きっと世界そのものなのだろう。一回聴いたときは拒絶感しかなかったのに何回も聴いてしまった。知らないうちに距離を取っていた人との繋がりや若い新しいものを心のどこかで知りたいと欲していることがすぐにわかっていた。そしてそれに身をゆだねることこそ本当の意味で生きることなのだと気づいた。昼は無思考に会社の奴隷となり働き、夜は自律神経を整える音楽を聴きながら体を休めることが生きることじゃない。若者は恐らくもうみんなそのことを知っているんだ。「ノイズ」を聴きながらホリエモンの本を読む。

僕にはまだ出来るだろうか。世界にとっての「ノイズ」となることが。

蝉の声が多くなってきましたね

梅雨が明けて、蝉の声も多くなってきました。私はこの声を聴くと遠い昔の夏休みに田舎で蝉取りをしたことを思い出します。蝉の声を聴くと夏を感じると同時にそういった幼いころの記憶がよみがえり、活き活きした気持ちになる。あなたはそんなことはありませんか。蝉の生命の叫びを聞いていると自分の命までみなぎってくるような気持になります。引っ越した先が公園の前なので窓を開けて空気を入れ替えるだけで蝉の声と夏の風に私の魂まで洗われるようです。とても幸せな気持ちになって昨日までの虚無感が嘘のようです。どうかあなたの魂もどこかでこの声と夏に洗われますように。

虚無感をなくすためにどうしたらいいのか

最近いつにもまして虚無感を感じる。具体的には会社における自分の存在意義に疑問を抱いたり、社会全体における自分の存在意義を感じられなかったり、要は生きがいを感じることができないようだ。虚無感は孤独と相性がいいのもあるがコロナがそれに拍車をかけている。気軽に外出することができなくなったため、旅行も街歩きも婚活も友人に会うことも、実家に帰ることもできなくなってしまった。平日は仕事という監獄で休憩も取れないほど誰かのために働き(給料もらってるので仕方ないのだが)、帰ってからは自宅という監獄で孤独感と虚無感を満喫するという素晴らしい廃人ライフを送っている。もうこんな会社辞めたいと思っても週末には何もする気力が沸いて来なくて、一日休んだらもう仕事という状況。ゲームのボス戦とかで例えるなら相手の攻撃力が高すぎて回復して攻撃を受けてを繰り返しいたずらにターンを消費するような状況だ。ゲームならともかく現実でこれをやってしまうと時間だけが流れていくそして就職して10年これを繰り返せば、孤独感と虚無感の結晶すなわち今の私が誕生するわけです。失った時間はもう取り戻すことができない。最近ガチャポンである「すべてが終わってしまったカエル」におけるソフトクリームがこの10年というわけだ。最もソフトクリームと比較しても明らかに私のほうが失ったものは大きいのだが、そのあと我々ができることは、これから先を良くしていくためにも今できることをやっていくということなのだ。具体的に行動すること、今これが私にも私と同じ境遇の人のために必要なことなのだ。そのためには小さな目標を一日一つでいいから設定し、少しずつ達成することなのだ。これしかない。それと些細なことに喜びを感じること。自分を認めてほめること。自分をもっと大切にしよう。

フジコヘミングさんについて

最近会社の後輩の話に影響されて寝る前にクラシックを聴いています。youtubeで見るとフジコヘミングさんの再生回数が多いのでそれを見るのですが、最近げきハマりしてしましました。何回か見ているうちに、フジコヘミングさんに影響を受けた漁師がラカンパネラをフジコヘミングさんの前で演奏するというテレビ番組の映像が配信されていて、パチンコが趣味の普通の人にここまでの影響を与える芸術家がほかにいるだろうかと強い関心と感銘を受けました。「人生は時間をかけて、私を愛する旅」とフジコヘミングさんは言いますけど、彼女がすごいのはさらにそれを他の人にまで与えて人生を変えてしまうといことです。ほかの人が言っていた「人生は魂の修行」とも重なるが、なにかそういったことを心掛けていくことが人の生きる道としてとても大切なことなのだなと思います。

やかんの麦茶について

今日会社で持参のトップバリュの48円の水を切らしてしまい、やむを得ず設置の自販機で100円のいろはすを買おうとしたら売り切れだった。ちくしょうめとおもい何かほかにないのかと見まわしたらやかんの麦茶があった。これは宣伝で何回も見かけたし、先輩たちもすぐに手をだして飲んでいてすごく気にはなったけれどもそういった広告的戦略には屈しないと決めている僕は手をだせないでいたのだった。しかし、みずがないのでは仕方がないという名目で購入して飲んだ瞬間なつかしい味がしたのだった。私は中学のころ陸上部だったのだが、山中湖の合宿でのんだ麦茶がまさにこの味だった。実際やかんに入っていたと思う。今どきの中学生の陸上部もやかんの麦茶なんか飲んでるんだろうか。飲んでないとこの広告は伝わらないし、きっと飲んでいるのだろう。広告的戦略には屈してしまったが失って得るものがあるということもあるし、まあいいか。

雨についてとある発明品の提案

雨が降った。今、弟がロシアにいるのだが、あの国は雨が降らないそうだ。なので雨が恋しい、雨っていいなあ、ということを言うのでおかしくて笑ってしまったのだが、弟はあの熊切の田舎の茶屋の屋根をたたく音が好きだったそうだ。はてどんな音だったかと思い出してみると確かに昔あの音を良いと思っていた自分を発見するのだった。雨音には人を癒す独自の音階があることは科学的にも証明されている。だが東京では車の往来が激しいところでは全く雨音がきこえないのだ。そこでこんな発明はどうだろう。雨音発生装置。この板状の装置をベランダに設置すると雨が板をたたいた時の音を拡大してくれるのだ。これによって都会でもあの茶屋のような美しい雨音を再現できる。あなたならいくらで買うだろうか。私は3000円くらいなら出してもいいかな。